人生をドラマチックに変えるターニングポイントとなった不思議な旅
今からちょうど20年前、1996年夏のことです。
オーストラリアに住む友人が、いきなり電話をしてきました。
「ねえ、9月に2週間、ペルーに行くんだけど、一緒に行かない?」
当時の私はフリーランスのライターで、連載記事をいくつも抱えていたため、そんな休みを取ることは考えられませんでした。「無理無理。そんな休みは取れないよ!」
ところがそのあと、あれよあれよという間に9月に予定されていた取材や締め切りが延期やキャンセル、前倒しとなり、9月の1か月がぽっかり空いてしまいました。
私はその友人に電話をかけ、急きょ参加させてもらうことにしました。
アステカ文明の遺跡巡り、チチカカ湖、世界初スピリチュアル国際会議
オーストラリア人3人と友人はメキシコ経由でペルーに入るとのことだったので、私は一週間先にメキシコ・シティーに入り、別の友人宅で高地訓練を兼ねて、アステカ文明の遺跡巡りを楽しみました。
オーストラリアから来た彼らと合流した私は5人からなるグループのメンバーとなり、リマで一泊した後、標高3800メートルのチチカカ湖に行きました。空がめちゃくちゃ近く、宇宙を間近に感じる町でした。
その後クスコに移動してさらに大きなツアーグループと合流し、美しいクスコの街を数日散策。それからユカイという、ウルバンバ川のほとりの小さな村で、世界初のスピリチュアル国際会議に参加しました。
アフリカのズル族、メキシコの先住民族などのシャーマンが勢ぞろいして基調講演、イギリスや日本からも宗教研究家が講演を行いました。9月の秋分の日は南半球では春分にあたり、そのセレモニーをして会議は終了。
その後マチュピチュに行き、隣のワイナピチュにも登山しました。
ツアーのグランドフィナーレであるシャーマンのセレモニーは、朝もや煙る遺跡の中で行われ、最後にコカの葉を3枚、遺跡の石の上にお供えしてツアーが終わりました。
その後再び最初の5人グループになって、メキシコに飛びました。
今度はカリブ海側のメリダでレンタカーをしてカンクンまで、途中チチェンイツァで泊まったりしながらマヤ遺跡巡りをしました。そしてさらに、LAからセドナに行き、アメリカインディアンの聖地めぐりをして帰国したのです。
メキシコ・シティ滞在中から、旅慣れていることを過信して現地の人々の食べ物を食べまくったせいか、国際会議の途中で体調を崩し、ぐったり半病人となってマチュピチュへ。
マチュピチュのふもとのアグアスカリエンテスの温泉に浸かり、ようやく回復するという究極の浄化も経験しました。国際会議の最中にはたくさんのシンクロニシティが起こり、帰国後それを短編小説に起こしました。(その未発表原稿、読みたい人いますか? 笑)
これまで約40カ国を旅してきた旅好きな私の経験の中でも、自分の意思がほとんど含まれていない旅は、たぶんこの時だけだったと思います。
当時は知りませんでしたが、私のハイアーセルフによる、強硬手段でした。
この旅を契機に、仕事の内容がビジネスオンリーから、自然や動物に大きくシフトし、スピリチュアルな分野の仕事が一気に増えていきました。あの不思議な旅は、私にとってのイニシエーションであり、人生をドラマチックに変えたターニングポイントとなりました。
そして気づけば20年の歳月が経ち、今年の4月、セドナ在住の友人、いとうゆうこさんの依頼で、チチカカ湖出身のシャーマンの記事作成に協力しました。(その記事は、ナチュラルスピリット社刊、スターピープル夏号に掲載されています。ロングバージョンはいとうゆうこさんのホームページで閲覧可。http://www.sedonaconnection.net/jorge/ )
シャーマンの名前はホルへ・デルガドといい、シャーマンの傍ら旅行業を営んでいるというプロフィールを見たとき、あれは彼が企画したツアーだったのではないかと直感しました。
そして今月12日、ワークショップのためにホルヘが来日しました。
インカの教えを日本に伝えるワークショップに参加した際、私は彼に直接訊ねてみました。そして案の定、彼はあのツアーの受け入れ旅行社のオーナーであり、国際会議の企画をした張本人だったのです。
古代インカの教えを日本に伝えるために初来日した彼との再会は、20年に及ぶ私のスピリチュアル探求の道のりを振り返る、素敵なきっかけとなりました。
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セラピストとして働く傍らで、スピリチュアル系、メタフィジカル系の書籍を多数翻訳し、日本に紹介し続けています。2014年10月他界したドロレス・キャノンの生前最後のメディア向けインタビュー記事を執筆したジャーナリストでもあります。