ハイアーセルフの視点で生きる
現世の幸不幸は、渦中で真逆に見えるというパラドックス
久しくセッションレポートを出していなかったので、先日の印象深いセッションについてご紹介します。小児科医師の岩崎博樹さんは、現代医療に携わりながら心の在り方やエネルギーサイエンスを日々の臨床現場で生かしている進化系ドクターです。そんな彼がヒプノサイエンスラボを訪れたのは、人の健康維持に深く影響を及ぼす潜在意識をより深く理解するためでした。
愛に満たされた少女の転生
最初に降り立ったのは、砂漠に残る廃墟。何かが起きて不毛の地となった痕跡でした。そこで時間を遡ってみると、それは芝生の庭のある瀟洒な一軒家で、家の中ではパーティーが開かれていました。 “私”はパーティー主催者夫婦の一人娘で、5,6人の来客が連れてきた子供たちと遊んでいます。私は巻き毛のロングヘアに、小さなカウボーイのような房の付いたひらひら衣装を着た8,9歳のお転婆な少女。父はやさしく穏やかで、時々投げ縄などの外遊びに付き合ってくれる人で、現世の妻の父親でした。母は現世の妻で、やさしさも厳しさもあるけれど、男の子のような服装やワイルドな遊びを好きなだけさせてくれる懐の深い女性です。この子の日常を辿っていくと、学校には行かず家庭教師のお兄さんが時々来るくらいで、何の不安も悩みもなく天真爛漫。両親の友人たちもみな善良で、非の打ち所がない環境でした。そしてこのパーティーの最中、あるいは直後に大惨事が起こり、幸せな光景がフリーズしたかのようにこの土地は一瞬にして焦土と化してしまいました。子供の目からは何が起きたかわからず、短い人生はそこで終わりました。
不幸な事故から人生が花開く
次に辿った転生は、みすぼらしい身なりの船乗りでした。身分の高い乗客たちを運ぶ大型帆船の船員である“私”は30歳くらいの東洋人でしたが、実年齢よりも老けて見え、人生に疲弊していました。人力で船を動かす仕事は重労働で、嵐や海賊などの危険もあり、やりたくないけれどほかに選択肢がなかったので生きていくために仕方なく続けていました。船長や同僚を含め、特に親密な友人はなく、唯一の楽しみは寄港した先の見知らぬ土地を訪ねることでした。
それから数年後、彼は怪我で視力を失い、船員としての職を失います。こうして彼にとって初めての陸地での生活が始まります。盲目の彼が選んだ新しい職業は琵琶か三味線のような弦楽器の弾き語りで、楽器と歌の練習を始めました。“私”には才能があり、キャリアは浅いけれどめきめきと頭角を現し、人気を博していきました。盲目になったことで逆に感性、音感が冴えわたり、芸事の道で評価され、この道では名の通った第一人者にまで上り詰めることになりました。
「船に乗っていた頃の閉塞感に比べ、世界が広がり、自由を手に入れました。何より本当にやりたいことに出会えた喜びを味わうことができました」
“私”は芸事に生涯を捧げることを喜びとして、それ以外の世俗的な欲はなく、50代後半で「いい人生だった」という言葉を残して一生を終えました。
不幸は真の幸福への前振り
ハイアーセルフとの対話でなぜこれらの転生が降りてきたのかについて訊ねました。曰く、一つ目の人生では愛が一番尊いということ、身内や家族ではなく人類愛を、言葉ではなく自らの存在を通じて示すこと、伝えることが彼の使命だということを知らせるための経験でした。二つ目の人生は、「人生をトータルで見ると、前半の苦しみがあったから後半が生きてきた。最初からそうなるようにデザインされていたが、リアルタイムで体験すると運命を恨むようなことの連続に見えるかもしれない」。これは岩崎さんの人生の前半で起きた不幸な経験に呼応するメッセージでした。「あの経験はお金、人間関係などすべてを捨てることにより、三次元的な物質に対する執着を手放すという学びだった。すべて捨てて一旦身軽になったことで、彼本来の使命がよりスムーズに発揮できる環境ができた。船乗りの人生と同じことだ」と。彼の魂は地球での経験が浅く、出身星は恐らくシリウス。この先は宇宙人の魂を持つ医師として、地球の未来を担う子供たちの心身の健康を支える、愛情あふれるドクターになっていくことでしょう。
慧眼ドクターの行く手に光明あれ
医療はビジネスとなり、メディアは薬害を伝えない―製薬マネーに忖度した社会にあって、現役の医師がホリスティックな健康管理を標榜することは命取りになりかねません。彼のような宇宙的視座に立つドクターが臨床の現場で地球の波動を上げる活動を続けて行けることを、そしてたくさんの後続ドクターが生まれることを願ってやみません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
★ 以下はDr.岩崎ブログです。
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セラピストとして働く傍らで、スピリチュアル系、メタフィジカル系の書籍を多数翻訳し、日本に紹介し続けています。2014年10月他界したドロレス・キャノンの生前最後のメディア向けインタビュー記事を執筆したジャーナリストでもあります。