山伏の道 金峰山
ヒプノセラピストの山岳巡礼
先日、奥秩父山塊の霊峰、金峰山に登りました。
私の目指す修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)によって、奈良県吉野の金峰山から蔵王権現を勧請(かんじん)したことに始まる“金峰山信仰”は、山頂の五丈岩を本宮とし、山全体が聖域となっています。以前吉野の金峯山寺の特別開帳で圧倒的な存在感の二柱の蔵王権現を拝んで以来、登りたかった山でした。
登山は瞑想とヒーリング
私にとって登山の目的はレクリエーションでもスポーツでもなく、瞑想と癒やし、ソースとの一体化です。ライフワークとなった観音霊場巡礼で経験する“観音様との一体化”の発展形であり、もっと偉大なガイアの息吹を直接肌で感じる経験は古来より続く日本の山岳信仰とぴったり重なるのです。山の神との合体への渇望のような欲求は、セラピストになってからますます高まりました。あらゆる偏見と無縁の、大きな磁場を自らの中に作ることは、セッションで多種多様な魂をお迎えするには必須の条件だと思うからです。要するに私のセラピスト稼業とは、菩薩の修行、山伏の修行です。
山では簡単に異界に遭遇する
大弛峠を起点として登山を始めると、立ち枯れの林がしばらく続きます。枝や葉のない白い幹越しに周囲の山々が見渡せます。そして“賽の河原”を通過して、稜線伝いに登っていくと、まるでテトラポットの上を歩くような険しい岩場の先に、目指す頂上に鎮座する五丈岩、ご神体(写真中央の岩)がありました。頂上は冷たい突風で吹き飛ばされそうでしたが、霧にかすんでたたずむご神体からは大きな愛を感じました。頂上付近には高山植物シャクナゲ、森の中からシカが現れ、幽玄の世界に迷い込んだ気がしました。
催眠セッションは精神的登山
今回のルートは朝日岳、鉄山のピークを経由するため登っては下り、登り返してはまた下りの連続で、苦痛を訴える肉体を無視してただ無心に目の前の一歩を踏み出すという、修行僧のような道程でした。今生では“大峰千日回峰行”のような過酷なチャレンジはできないし、するつもりもありませんが、こうしてトランス状態で山行を続けることは、その片鱗を垣間見ることになるのではないか、という期待があります。実際険しいガレ場をよじ登りながら来たことを後悔する自分、ナチュラルハイとなって「山って最高!」と笑う自分が交互にやってきて、心身共に能力を限界まで使っているという爽快感があります。都会に帰れば潜在能力のせいぜい1,2割程度での自動運転。安全な繭の中で半分眠って過ごしているような不完全燃焼感が際立ってきます。ただしセッションは“異次元探訪”という精神的登山で、これも能力の限界まで使っている緻密な作業です。
非日常の快感
私の登山の目的はピークハントではないので、目指す霊峰に高度な登山スキルは不要ですが、気のゆるみから浮石を踏んで滑落、道迷いからの遭難といった命の危険はどの山にも常にあります。こういうところで健全にアドレナリン発動していると、都会でつまらないことでアドレナリンが出て来なくなるのではないか、つまり一喜一憂の幅が限りなく小さくなるのではないかという目論見もあります。そんなわけで都会では味わえない山岳巡礼の非日常は、面白くてやめられません。
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セラピストとして働く傍らで、スピリチュアル系、メタフィジカル系の書籍を多数翻訳し、日本に紹介し続けています。2014年10月他界したドロレス・キャノンの生前最後のメディア向けインタビュー記事を執筆したジャーナリストでもあります。