結願の日に思うこと
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
さて、昨日は秩父三十三観音霊場巡りの結願の日。
雪にも祝福された初観音の日に、晴れて満願成就しました。
ヒプノセラピストとして、今年もますます精進いたします
ヒプノサイエンスラボの主として、ひろい心で多様なクライアント様をお迎えしていくために、一昨年から観音霊場巡りを月に一度のペースで実施しています。セラピスト稼業とはイコール菩薩の修行なので、NLP的に言うところの、観音菩薩のモデリングを続けてきました。
昨年8月には坂東三十三観音霊場巡りの結願を果たし、続いて昨日の結願を経て思うのは、無になることの深い深い意味。
私たち人間は常に自分(低レベルのエゴからより洗練された高レベルの自己までを含む)を基準として外界のすべてを“自分の物差し”で測っています。あらゆるものを自分と比較したり距離感を測ったり、品定めが始まり、善悪、好き嫌いといった二元論にはまります。
自分という核が一人の人間という狭い範囲から拡大し、家族や友人、属している組織全体、さらには地球全体くらいまで大きくなると、個としての自分は無に等しくなり、その物差しはかなり神に近いものになります。そしてその広い自我意識が”衆生を映す鏡”となれば、そこが菩薩の始まり、なのではないかと思います。それはもはや仏教という宗教カテゴリーを超越しています。
私はもともと古神道の生まれですが、アメリカ留学時代は教会に通い、学問として仏教を学び、回教国に行けばスカーフをかぶってモスクに何度となくいきました。そうやって知りたかったのは、人々の心を癒やす多種多様な宗教を貫く共通理念とは?ということでした。つまるところ、宗教でもスポーツでも学術研究でも、過程は何であれ行き着くところは同じ、無の境地です。
それは死ぬまでにどこまで近づけるかという遠い目標ではありますが、新年なので、ここでひとつ面白い違いをお教えします。
人間の暮らしにつきものの感情と言えば、喜怒哀楽。物質界の密度の濃い体を駆け巡る感情とは、脳が作る化学物質の合成物です。
私たちの多くは馴染み深い感情をいくつか持っていて、その感情を表す化学物質のカクテルの中毒に陥っています。ポジティブな感情の中毒ならまだしも、怒りっぽいとか僻みっぽいとか、自己否定とか言った感情の中毒症状は人の未来を破壊します。なぜなら人は思考より感情によって生きているからです。人が進化していくと、その体は“物体”から“エネルギー体”へと変化します。端的に言うと、非物質化の過程で、進化するにつれ、体はライトボディ化します。量子力学でいえば、粒子から波動への変化、ですね。
菩薩の域に達した人にも感情らしきものはあります。しかし、それは化学物質が作る物理的な感情ではなく、電気的なエネルギーです。慈悲の心という圧倒的な愛は、人間が抱く愛より何百倍も強いエネルギーでありながら、電気信号なので後を引きません。相手がどんな反応をしようと全く動じないので、下等動物から見ると、クールを通り越してドライに見えます。
私たちが日頃から愛と呼んでいるものの多くは、愛という名の執着なのかもしれませんね。愛のバージョンアップについて、考えてみませんか?
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セラピストとして働く傍らで、スピリチュアル系、メタフィジカル系の書籍を多数翻訳し、日本に紹介し続けています。2014年10月他界したドロレス・キャノンの生前最後のメディア向けインタビュー記事を執筆したジャーナリストでもあります。